Study in Japan Global Network Project in ASEAN

日本の皆様へ

ミャンマーよもやまばなし

2020年11月05日

第2回 岡山大学鹿田キャンパスを発信地とするミャンマーとの交流

岡田 茂認定特定非営利活動法人日本・ミャンマー医療人育成支援協会(MJCP) 理事長/岡山大学名誉教授

はじめに

 初めてミャンマーの地を踏んだのは1987年(昭和62年)12月、30年以上も昔の話だ。ネウィン率いるビルマ式社会主義政権(第1次軍事政権)の末期に当たる。当時、京都大学医学部が主幹校となって、病院、学校、研究センター建設を含むJICA事業が進んでいた。私は出来上がったばかりの生物医学研究センター(現在、国立医学研究局、DMR)で約1か月間、研究指導をすることになった。それにしても、プロジェクトの指導者、京都大学医学部病理学教室の濱島義博教授の「岡田君チョッとビルマに行ってくれないか」の一言がここまで私の人生に影響するとは思わなかった。2020年3月で私のミャンマー訪問は104回を数えた。
 私は1990年(平成2年)京都大学から岡山大学教授(医学部病理学第一)として帰任したが、第2回目の訪緬、同年12月16日から1か月間、が待っていた。これは1968年(昭和43年)以来進めていたJICA事業の終焉セレモニーに参加するものであった。直前の1988年に第1次軍事政権は経済破綻により終わりを告げたものの、母親の看病を機会にイギリスから帰国していたアウンサンスーチ女史を先頭にして動き始めた民主化の夢は萎み、第2次軍事政権が始まっていた。女史の父親は有名なアウンサン将軍で、戦中は日本軍と協力してイギリス軍を駆逐し、戦争の末期には日本軍と袂を分かったものの、戦後のビルマを独立に導いた英雄である。国名も英語名はBurmaからMyanmarへと変わっていた。経済は疲弊しきっており、ビールは温かく、果物以外は口に入れるのが怖かった。しかし、人々は優しく、真面目で、誇り高かった。私は自分の研究テーマで共同研究を申し出た。多くの研究者が参加を申し出てくれた。

国際共同研究の始まり

 当時、私は鉄代謝の研究を通じて鉄が媒介するフリーラジカル発がんに興味を持っており、動物での鉄による腎臓がんの発生を世界で初めて報告していた。ヒト肝臓がんの発生でも肝臓に沈着している鉄が病気の進行に大きく関与していることも明らかとなっていた。ミャンマーでの短期間の研究指導中に、頻回輸血を受けている先天性貧血症サラセミアの患者血清にはフリーラジカル産生を媒介する自由鉄が多いことを見つけて、論文としていた。
 蚊を媒介して赤血球に寄生するマラリア原虫は、赤血球のヘモグロビンに異常がある人には感染し難いようだ。サラセミアを含めてヘモグロビン遺伝子に異常のある人がマラリア蔓延地域には多いのはその理由による。一方、この国の肝臓がんの頻発年齢は40歳代であり、日本の60歳代と比べると随分早い。私は、この肝臓がんの早期発生はサラセミアに関連した鉄過剰が関連している、との仮説をたて、1993年から文部省に科学研究費を申請していたが、1996年(平成8年)から研究費を得た。私を班長として、東大の石川隆俊教授、長崎大の小路武彦講師(現教授)、岡大の武田和久教授、国立医学研究局のネウィン研究員などの錚々たるメンバーが加わってくれた。血液は感染予防のため、日本に持ち帰り検査した。

ミャンマーC型肝炎対策、ミャンマー保健省と岡山大学の交流協定

 患者血液の検査結果を見て魂消た。頻回に輸血治療を受けた子供の90%以上がC型肝炎ウイルス(HCV)に感染していたのだ。輸血液のスクリーニングは行われておらず、現地医師を含めて誰もこの事実を知らなかった。緊急の課題がでてきた。知遇を得ていた評論家の屋山太郎氏に相談すると、当時ミャンマー友好議員連盟の渡邉秀央会長(現日本ミャンマー協会理事長)を紹介下さり、渡邉会長からJICAを紹介して頂いた。1999年(平成11年)、事前調査の後「ミャンマーにおけるC型肝炎対策」が開始された。ミャンマー側のパートナーとして国立医学研究局(DMR)のミョーキン医師(後に、DMR局長を経て、現在、MAJA(後述)会長、私たちのNPOのミャンマー支部長、岡山大学国際同窓会長)が選ばれた。2000年3月、ケッセイン保健大臣、ミャウー副大臣、パインソウDMR局長(後に、副大臣)ら出席の下にセミナーおよびHCVスクリーニングに必要な機器、試薬の寄贈式を行った。テレビ、新聞などを通じて広く報道された。2002年までに3回のワークショップを開催し、C型肝炎のスクリーニングも開始された。この間、多くの医師、技師たちを岡山に招へいし、技術指導を行った。岡山大学の武田和久教授、小出典男教授、白鳥康史教授、太田吉夫教授、岡山日赤センターの宮原正行部長らには随分お世話になった。人材育成の必要を強く感じたのはこの頃だ。
 当時の軍事政権下での何年にもわたる大学閉鎖、民主化運動の弾圧などの結果、ミャンマーは長期間鎖国状態だった。折角始めていた交流も不安定だったので、私は岡山大学とミャンマーの医科大学との間で、大学間協定を結び日本での研修を容易にしようと思い立った。しかし、当時のミャンマーの大学には国際協定を結ぶ権限は無く、大学を管轄している保健省と交渉しなければならなかった。幸い、私をミャンマーに誘った濱島教授と親友であったミャウー教授が副大臣だったので、喜んで話にのってくれた。これを岡山大学に持ち帰ったが保健省との協定は前例が無いという事で、折衝は進まなかった。ミャンマーの事情を何度も説明してようやく2002年(平成14年)11月にミャンマー保健省(写真下)で、12月に協定書に河野伊一郎学長のサインをもらう事が出来た。


ミャンマー保健省にて

軍事政権に対する経済封鎖と岡山大学学長裁量経費

 翌年、2003年(平成15年)5月に軍政によるアウンサンスーチ女史の自宅軟禁の事態が再々発生したための日本を含む欧米による経済封鎖が実施され、私たちの肝炎対策も突如打ち切られた。私は人道支援の大切さを訴え、何度もJICA,外務省を訪れたが無駄だった。幸い文科省の科学研究費は継続できた。
 頓挫したC型肝炎プロジェクトを救ってくれたのは、岡山大学の学長裁量経費(「岡山大学COE」)だ。河野伊一郎学長の理解もあり、2004年より2006年までC型肝炎対策を継続することができた。大学間協定は継続に大きな力となった。
 C型肝炎プロジェクトは無事終了し、プロジェクトに積極的に参加していたチーダアウン医師は国立血液銀行が改組した国立血液センター長となり、プラスチックバッグの採用、売血禁止、献血推進と共に献血グループを積極的に立ち上げてくれた。献血制度が確立し売血は禁止された(2005年)。私は2005年に定年退職し、岡山大学COEは小出典男教授、眞治紀之講師が引き継いでくださった。文科省の科学研究は長崎大学の小路武彦教授に引き継いで頂いた。

NPO日本・ミャンマー医療人育成支援協会(MJCP)の設立

 それまでミャンマーへの思いを語り合った岡山大学の仲間を中心に会員組織である協会の設立を計画した。最初の総会を開催したのは私が退職した2005年の10月12日だった。法務局の登記が終了したのが翌年3月3日である(写真下がその概念図)。


 当初から岡山大学と共同歩調をとっていたが、2015年3月には相互協力に関する協定を結んだ。医療人の研修促進事業、研究者の交流促進事業、無医療村の解消を目指す准助産師の育成(写真下)。災害時の医療支援、医療過疎地への診療所建設支援、形成外科による現地での医療活動、子宮がん・乳がん・口腔がんの継続的なスクリーニングの実施など事業を確実に拡大していった。現在設立15年目を迎え、MJCPの支援で3カ月から6か月の研修支援を行った医療人は約100人になっており、ほぼ全員が各専門を生かした指導者として活躍している。


5年間で、100人の准助産師を育て、100村に配置した

協定10周年記念式と岡山大学国際同窓会ミャンマー支部の誕生

 2011年4月、ミャンマーは軍政から脱却し、テインセイン氏がミャンマー連邦共和国の初代大統領に就任した。その翌年、前述の大学間交流協定は10周年を迎えた。11月ヤンゴンのDMRを会場として、岡山大学からは森田潔学長、槇野博史病院長(現学長)ら、ミャンマー側からはペテキン保健大臣、DMR、医科大学の関係者、多くの留学生が出席した(写真下左:交流記念パネルを見学する保健大臣。右:記念写真)
 その当時、岡山大学では森田学長の下で岡山大学国際同窓会の活動が開始されており、次々に国際支部が誕生していた。2014年の春ごろ、ミャンマー支部の設立を申し出た。ミャンマー支部の活動を支える組織として私はMAJA(Myanmar Association of Japan Alumni, 元日本留学生協会)が適当と考えた。


 MAJAは太平洋戦争中の47名の「南方特別留学生」に起源をもつ。実践力で総てを叩き込む日本の教育は驚きと喜びだったようだ。当時の日本政府の意図はともかく、ビルマの戦後復興に活躍したのはこの人たちだった。1990年日本政府は「南方特別留学生」を招聘し、同窓会を開催した。これをきっかけにMAJAが生まれ、ミャンマー政府内務省の認可を2002年に得た。当初会員49名の多くは南方特別留学生だった。私はMAJAのメンバーとは当初からお付き合いがあった。
 岡山大学国際同窓会ミャンマー支部の発足記念式典は2014年8月19日ヤンゴンのパークロイヤルホテルで開催。岡山大学からは森田潔学長、張紅国際同窓会長ら多数、ミャンマー側からはMAJAの幹部、DMRや保健省の幹部職員、日本大使館からも山本俊男公使など、同窓会員50数人が休暇をとって多くの都市から集また。また、MAJAと岡山大学の間でMemorandum of Understanding (MOU)がサインされるなど、意義ある式典となった。
 2018年8月にはマンダレー支部も結成され、マンダレー医療技術大学学長で、元NPOの研修生Mya Mya Ayeが支部長に就いた。その後、2020年3月にミャンマーでの岡山大学国際同窓会の総会をヤンゴンで開催している。


ミャンマー事務所の設立、6大学協定と岡山大学

 岡山大学は2004年以降の毎年、1月に催されるミャンマー医学研究大会(DMR主催)に合わせて特別講演、シンポジウムの講演者を送りだしている(写真下は2013年のグループ)。現在までに岡大関係者だけでも述べ100人を超すであろう。当初は総合内科の小出典男教授が、現在は形成外科の木股敬裕教授がコーディネーターとなっている。また、2010年、木股教授は「日緬形成外科ミッション」を形成し、毎年麻酔医、看護師を含む多数の医師団を送り込んで実地教育を行い、さらには岡山での長期研修を指導するなど、ミャンマーにおけるマイクロサージャリーの普及を支援してきている。
 これらの実績は岡山大学が2014年(平成26年)募集の文科省「留学コーディネーター事業(現、日本留学海外拠点連携推進事業(東南アジア)」の拠点校に選ばれる大きな理由となったと思われる。現在はヤンゴンとマンダレーに事務所を設けている。また、岡山大学はJICAの「ミャンマー医学教育強化プロジェクト」、および「ミャンマーメディカルエンジニア育成体制強化プロジェクト」の拠点校として活動している。これらの詳細については、ヤンゴン事務所の鳥越麻美氏、JICA事業の木股教授に譲りたいと思う。


岡山大学に遺したいもの

 私がMJCPを立ち上げた動機の一つに日本の持つ人的、財的資源を十分に活用して、ミャンマーに自律的に近代医療を実践できる力を根付かしたいという思いがあった。その当時も世界各国の医療ボランティア団体がミャンマーに入り、期間を区切って医療を施しそれを基に寄付を集めていた。私はそれでは持続性がないだろう、それでは近代医療はミャンマーに根付かないだろう、と考えた。やはり、自国の弱み、強みを知っているミャンマー人自身が近代医療という武器を手に入れることにより、医療は近代化、持続性も可能となる、というのが私の考えだった。幸い私には岡山大学という教育の城と多くの友人たちがバックにあったお陰で活動を続けてこられた。これは岡山大学が強力に推し進めているSDGsの考えにも沿うものではないかと自負している。私自身の活動もそろそろ晩期に差し掛かっているが、幸い、鹿田キャンパスには木股教授を中心に「岡山大学ミャンマー医療協力部会議」があり、活動が継続できそうだ。やがては私の活動も引き継いで頂ければ本望である。


BACK